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【偉人紹介】相対性理論の生みの親『アインシュタイン』とはどんな人物?「現代物理学の父」の半生にせまる【第1回】





今回より、宇宙科学の歴史に名を刻む【偉人紹介シリーズ】を始めていきたいと思います。

記念すべきシリーズ第1回目の偉人は、相対性理論の生みの親であり、20世紀最高の物理学者とも評される『アインシュタイン』です。

 

アインシュタインと言えば、舌をべーっと出したお茶目な表情の写真が有名ですよね。

宇宙や物理学に興味が無い人でも顔と名前を知っている方も多いはずです。

アインシュタインという人物について簡単にまとめると

といった感じで、頭の良さが尋常じゃないところを除くを結構ふつう(いや、ろくでなしの部類か?)の人物だったようです。

しかし、この”頭の良さが尋常じゃない”というところがアインシュタインを偉人たらしめる最大のポイントであり、彼の頭脳から生み出された従来の物理学を覆す数々の新理論の偉大さをもってすれば、多少家庭内で暴力を振るおうとも、妻の他に好きな人を作ろうとも、精神病を患った息子に冷淡な態度をとろうとも、挙句の果て離婚していようとも、靴下はかないから足が臭かろうと、バイオリンの腕前をプロに訪ねて微妙な顔をされようとも、全く関係ないに等しいのです!

ここまでですと、いかにも私がアインシュタインを嫌っているように思われるかもしれませんが、それはとんでもない誤解です。

アインシュタインに限らず天才学者のイメージにありがちな近寄りがたイメージを払拭し、読者の皆さんにより『アインシュタイン』という偉人に親しみを持ってもらいたいという意図があり、あえて彼の人間臭い部分を簡単に紹介させて頂いたに過ぎないのです。

これは私個人の意見となってしまいますが、専門書を読んだり、大学で物理学や量子力学を学べばアインシュタインの生み出した「理論や功績」の偉大さを知ることはできますが、本当の意味で『アインシュタイン』の偉大さを知ることはできません。

アインシュタインが生きた当時の時代背景や彼の人物像および周囲を取り巻く人間関係に触れてみて初めて『アインシュタイン』という人物の偉大さを理解することとなるのです。

 

そこで、本記事の主役である『アインシュタイン』の生涯や功績はもちろん、彼の人物像が伺えるエピソードも交えて、要点のみをできるだけ詳しくまとめた形で紹介していきたいと思います。

 

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生涯

まずはアインシュタインの生涯について紹介していきます。

彼の生涯を通して、当時の時代背景や人間関係も伺い知ることができるでしょう。

 

幼少期


幼少期のアインシュタイン
かわいい(*´ω`*)

1879年3月14日、ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルグ州ウルム市にて、ユダヤ人の父ヘルマンと母パウリーネとの間に長男として生まれたのが、後の天才物理学者アルベルト・アインシュタインです。

父ヘルマンは商人であり、アインシュタイン家は比較的裕福な家庭でした。

アインシュタインが3歳のころ、妹のマリアも誕生し、一家は1894年までドイツで生活することとなります。

幼少期のアインシュタインは、言葉を理解することはできても話すことが苦手で、5歳ごろまで満足に会話することができなかったため、知能の発達をの遅れを両親は心配していました。

確かに、後の人生でも語学に関しては非常に苦労したようで、生涯「R」を左右逆に記述するなど、アインシュタインはディスレクシア(文字の読み書きに支障がでる学習障害の一種)であったと言われています。

ちなみに、「アインシュタイン=サヴァン症候群(天才症候群)」であったとされる説が、世間では広く知られていますが、近年ではディスレクシアとアスペルガー症候群(コミュニケーション障害の一種)の併発であったという説が有力です。

 

ちょっと会話が苦手だったアインシュタインですが、5歳の時に父から与えられた方位磁石がきっかけで、自然界のメカニズムに強く興味を持つようになります。

6歳の時には、一生の趣味となるバイオリンに出会いました。

 

そして、アインシュタインが大天才の片鱗を見せ始めたのが、彼が9歳の時です。

このころ「ピタゴラスの定理」の存在を知ったアインシュタインは、幼くしてこの定理を自力で証明し、数学の美しさを知ることとなりました。

12歳の時には、叔父からユークリッド幾何学の本をもらったことをきっかけに微分積分を独学で理解・習得し、同時期に知った天文学の存在により物理学にも関心を示すようになったのです。

ただ、このころ通っていた学校では、当時のドイツにありがちな軍国的主義的な校風になじめずストレスを感じていたようです。

おとなしくシャイだったアインシュタインは、当時の学友からは「とろい」などと評されていました。

 

いや~、それにしても9~12歳で数学とか物理学に興味を持つ子供なんて普通はいませんよね(;’∀’)

私の場合、小学生のころのなんて、「学校が終わったら何して遊ぼうかな?」とか「今日のご飯は何かな?」とか、その程度のことしか考えてなかったように思います。

皆さんもそうですよね? ね(◎_◎;)?

 

少年~青年時代、不思議な夢との出会い


アインシュタインが14歳の時の写真

1894年、アインシュタインが15歳の時、父と叔父の会社の経営が行き詰まり、一家はアインシュタインだけを残しイタリアのミラノに引っ越すこととなりました。

当時通っていた中等学校をしっかりと卒業するため、ドイツに一人残されたアインシュタインですが、やはり規則でがんじがらめの学校の居心地が良くなかったようで、退学してイタリアに移り住んだ家族を追うこととなります。

アインシュタインは、移住先のイタリアで「磁界中でのエーテルの状態の調査について」という短い論文を書きました。

翌年の1895年には、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験します。

総合点が合格基準に届いていなかったものの、数学と物理の点数が受験者の中で最高ランクであったことが理由で、特別に翌年度の大学入学資格が与えられました。

ただし、これには条件があり、チューリッヒ連邦工科大学の校長はドイツの中等学校をきちんと卒業していないアインシュタインに、スイスの中等学校を卒業するよう命じました。

ドイツと比べ、スイスの学校はある程度自由があり、アインシュタインは無事中等教育を修めることができました。

さらに、スイスの中等学校に通った経験がアインシュタインにもたらしたものは、大学の入学資格だけではありませんでした。

 

ある日、アインシュタインが学校の裏にある丘で空を眺めているとき、ついうたた寝をしてしまったところ、彼は不思議な夢を見ることになります。

その夢は、アインシュタイン自身が光の速さで光を追いかけるという内容でした。

目を覚ましたアインシュタインは、すぐさま思考実験を試み、この体験が後の「相対性理論」を生み出すきっかけとなったのです。

 

歴史に”天才”として名を残す人々は、しばしば自分の見た「夢」から発想を得て、周囲があっと驚くことをやってのけます。

原子の構造を発見したボーアや、ベンゼン環を発見したケクレも、大発見のきっかけは自分たちの見た夢でした。

夢から着想を得るのは学者だけではありませんよ。

ビートルズのポール・マッカートニーは夢の中で大ヒット曲「Yesterday」を作曲したり、ロバート・ルイス・スティーブンソンは夢で見たものを小説にし世界的に有名な著書「ジキル博士とハイド氏」が生まれました。

一説によると、夢は見る人の潜在意識をあらわしていると言われています。

天才たちは無意識に自分が導き出すべき”答え”をすでに知っており、夢をきっかけにしてその”答え”を形にすることができるのかもしれませんね。

 

チューリッヒ連邦工科大学時代


チューリッヒ連邦工科大学

チューリッヒ連邦工科大学に進学したアインシュタインですが、講義にはあまり出席していませんでした。

自身が興味を持つ分野にだけにしか関心を示さないため、教師には反抗的と評され、大学側からするとアインシュタインは”問題児”でした。

興味があった電気技術では優秀な「6」、対してつまらないと思っていた物理の実験では最低評価の「1」を取るなど、成績は分野により極端なものでした。

 

結構好き勝手な大学生活を満喫していたアインシュタインですが、この頃に後の妻となるミレーバと出会います。

アインシュタインとミレーバは同じ課程の生徒同士で、はじめは友達だった二人ですが、幾年か共に過ごすうちに互いに惹かれ合っていきました。

どちらかというとアインシュタインの方がミレーバに夢中になっていたようで、物理の文献を一緒に読んだりして愛を深めていたそうです。

いくら後の偉人と言えどもやはり人間であり、普通に恋愛をするのです。

ただし、好きな女の子とコミュニケーションの手段のひとつが、「一緒に物理の文献を読む」ということに関しては、さすがアインシュタインといったところでしょうか(;’∀’)


ミレーバ・マリッチ

 

特許庁への就職

1900年7月、アインシュタインはチューリッヒ連邦工科大学を卒業しました。

科学者を志す者は、大抵、卒業後も大学に残るか、他の大学に雇われるなどして研究助手となり、研究を続け教授を目指します。

しかし、アインシュタインは大学の物理学長であったハインリヒ・ウェーバーと仲が悪く、他大学で働くことのできるつても無かったため卒業後すぐに大学の研究員にはなれませんでした。

そのため、保険外交官や臨時教員、時には家庭教師のアルバイトなどもして生活費を稼ぎつつ、論文の執筆に取り組むこととなりました。

 

1896年に、ドイツ帝国の兵役義務を逃れるために市民権を放棄し無国籍となっていたアインシュタインですが、1901年にスイス国籍を取得します。

ただし、スイスにも兵役義務は存在し、当時年齢が20台前半だったアインシュタインも兵役の対象者となります。いや、なるはずでした。

アインシュタインは軍の検査で、偏平足や静脈瘤などの診断を下され兵役を免除されたのです。

 

スイス国籍を得たアインシュタインは、1902年に友人の父親の口利きで、スイス特許庁に審査官として就職しました。

特許庁は思いのほかアインシュタインには向いていたようで、ホワイトで安定した収入が得られる職場だったため、物理学の研究に打ち込める時間も増える上に、特許申請書類の中には彼にとって興味深い発明理論や数式がたくさんあったのです。

なんと、後の大発見のひとつである「特殊相対性理論」のアイディアは、時計の時刻合わせに関する特許申請書類を読んでいるときに得たそうです。

 

1903年1月6日に、アインシュタインとミレーバは正式に結婚し、翌年の1904年には長男のハンスを授かりました。

 

アインシュタインは、本当は大学で研究員をしていたかったはずですが、特許庁勤めの暮らしも案外合っていた…というか順風満帆そのものですね(*’▽’)。

 

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アインシュタインの才能の開花と「奇跡の年」

1905年、アインシュタインが26歳のこの年に、3つの重要な論文を発表しました。

アインシュタインの物理学者としての才能が爆発し始めた西暦1905年は、後に「奇跡の年」と呼ばれることになります。

 

アインシュタインは、1905年に博士号取得のために「特殊相対性理論」と、ブラウン運動の理論の基礎となる「分子の大きさの新しい決定法」に関する論文を大学に提出しました。

そして、後に将来ノーベル物理学賞を受賞することになる「光量子仮説」の論文もこの年に完成させます。

これらの論文の内容は、革新的かつ近代物理学の基礎をつくる上で非常に重要なものでした。

当時の物理学の見識を一気に広げるような論文を1年間という短期の間に3つも発表した人物は後にも先にもアインシュタインただ1人だけです。

ノーベル賞は同じ分野で一人の人物が受賞できるは1回だけ、という決まりがありますが、もし回数制限が無ければアインシュタインはこの年の論文だけで3回はノーベル賞を取れていたことでしょう。

まさに1905年は、物理学界のみならず、人類にとっての「奇跡の年」であったと言えるでしょう。

 

「奇跡の年」の後もアインシュタインの物理学に対する情熱は尽きることなく、むしろさらに才能を輝かせ偉大な理論を次々に生み出し発表していきます。

 

1907年には、「特殊相対性理論」の帰結として「E = mc2」の式が発表されました。

アインシュタインが発表した公式の中でも最も有名なものです。

この式を一言で言うと、質量とエネルギーの等価性をあらわしています。

要するに「重さは形のないエネルギーに変換できるし、逆にエネルギーから重さ、つまりは物質が生まれますよ」ということを示しているのです。

ちなみに、1gの物質がエネルギーに変換されると震度6の地震を起こしたり、10万トンの氷を沸騰させることができるほどのエネルギーが発生します。

この理論は軍事にも利用され、結果的に原子力爆弾が実用され、アインシュタインは心を痛めることになります。

 

1907年のイベントは「E = mc2」の発表だけではありません。

アインシュタインが生涯最良の名案と評する「等価理論」を考案したのも、この年でした。

「等価理論」とは、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別できない」という理論で、後に発表される「一般相対性理論」の基礎となります。

 

こう見ると、アインシュタインはやはり”偉大”、というか”異常”です。

才能がある者が一生かかって成し遂げられるかどうかという偉業を、数年の間にいくつも…(;’∀’)。

アインシュタインのすごさをわかりやすく伝えたい…!

スポーツ選手に例えると、「野球のメジャーリーグで年間MVP」「サッカーでバロンドールを受賞」「オリンピック陸上100mで金メダル」これらを1人で、それも同じ年で成し遂げるくらいのすごさとでも申しますか…。

う~ん、難しい…(◎_◎;)

とにかく!「奇跡の年」から数年間のアインシュタインは…人類史上誰も真似できないくらい 超すごかったんです!

(筆者のボキャブラリーの少なさ、表現力の至らなさをお許しください。)

 

大学教授への転職


ジュネーヴ大学(左)とプラハ大学(右)

博士号を取得したアインシュタインは、1909年に特許庁を辞職し、チューリッヒ大学の助教授となりました。

さらにジュネーヴ大学から名誉博士号が授与されるなど、世間がアインシュタインの才能を完全に認め始めます。

1910年にはプラハ大学の教授に昇進し、めでたいことに次男エドゥアルトを授かりました。

1911年には、第一回「ソルベー会議」に招待され、後の偉人たちと共に物理学の発展に多大な貢献をしました。

この「ソルベー会議」はソルベーとネルンストにより主催されたもので、3年に1度のペースで開催され、この会議の招待者は主催者の2人を筆頭にアインシュタイン、シュレディンガー、パウリ、クヌーセン、ディラック、ボーア、ラングミュア、プランク、キュリー夫人、ローレンツなどなど、一人ひとりが後世の化学・物理分野において偉人と言われる人物ばかりという、まさに当時の科学者オールスター会議と言っても過言ではないでしょう。

第5回ソルベー会議出席者(1927年)後列:ピカール、ヘンリオット、エーレンフェスト、ヘルツェン、ドンデ、シュレディンガー、ベルシャッフェルト、パウリ、ハイゼンベルグ、ファウラー、ブリユアン中央:デバイ、クヌーセン、ブラッグ、クラマース、ディラック、コンプトン、ブロイ、ボルン、ボーア前列:ラングミュア、プランク、キュリー、ローレンツ、アインシュタイン、ランジュバン、グエ、ウィルソン、リチャードソン化学・物理・量子力学の参考書に載ってる名前ばかり…スゴイ(小並感)

1912年には、再び母校であるチューリッヒ大学に戻り、翌年の1913年には「プロセイン科学アカデミー」の会員となりスイスからドイツのベルリンに移り住みました。

「ソルべー会議」に引き続き「プロセイン科学アカデミー」の歴代所属者も偉人ばかりでした。

オイラー、モンテスキュー、ヴォルテール、ヘルムホルツ、プランクなどなど歴史に名を残す優秀な学者たちにより「プロセイン科学アカデミー」は運営され、様々な分野の研究が推進されてきました。

 

アインシュタインは30台半ばにして偉大な科学者の仲間入りを果たしたのです。

しかし、彼の波乱万丈の人生はまだまだ続きます。

 

家庭のトラブル


ミレーバとアインシュタイン

どんなに社会的に成功していて立派に見える人物でも、私生活まですべてうまくいっているとは限りません。

若くして物理学者としての確固たる地位を確立したアインシュタインですが「私生活はうまくいっていない」側の人間でした。

 

アインシュタイン一家がベルリンに移住してきて数か月が経過するころ、アインシュタインが妻であるミレーバがいるにも関わらず、はとこのエルザに対して恋愛感情を抱いていることが発覚し、ミレーバは子供たちを連れてスイスに戻ってしまいます。

これ、完全に世の女性たちから「サイテー!」と顰蹙(ひんしゅく)を買う案件ですね…(;’∀’)

また、アインシュタイン一家の離別の一員としては、アインシュタインの家庭内暴力癖にもあったことが後に公表されており、精神病を患った次男に対しても相変わらず冷淡な態度をとるなど、なかなかのクズ男ぶりだったようです。

別居生活の過程では、アインシュタインとミレーバは互いに罵り合い、慰謝料や養育費の支払いに関する駆け引きなど、今も昔も変わらない男女の間で特有のドロドロとした争いの果てに1919年2月に正式に離婚しました。

当時、請求された慰謝料を支払う余裕のなかったアインシュタインは「ノーベル賞を取ってその賞金をミレーバに譲る」などと常人にはまねできないパワープレー的条件を提示して5年間にわたる泥沼離婚調停に終止符を打ったのです。

格好良いのか悪いのかよくわからない慰謝料の支払い条件ですが、ミレーバとの離婚から2年後に実際にノーベル賞を受賞してしまうのですから、やはりスゴイ…(;’∀’)!

離婚から4か月後の1919年6月にエルザと再婚しました。

新しい恋人との結婚は果たせて幸せであったアインシュタインですが、世間的には妻や子供たちを捨てたろくでなし男とも評されることとなりました。

どんな方程式も難なく解いてしまう偉人であっても、家庭問題の難しさはどの家庭とも変わらないものであり、アインシュタインのそれは特に人間臭いものだったと言えるでしょう。


アインシュタインと再婚相手のエルザ

 

第一次世界大戦勃発

1914年、第一次世界大戦が勃発しました。

アインシュタインは、学者にありがちな世情に疎い世間知らずというわけではなく、むしろ世界情勢に対しては敏感で平和運動に対する強い関心を持っていました。

大戦中は平和主義を掲げ、公然と戦争を批判し「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の神通を収容する刑務所を保有していないんだ」という発言を残しています。

1915年に、フランスの作家であるロマン・ロランと出会ったアインシュタインは意気投合し二人で、命がけの平和運動を行っている人々の手助けについて熱く語りあったそうです。

後の人生でも、度々平和運動に対しては積極的に協力していくこととなります。

元妻であるミレーバとの家庭の平和はぶち壊したアインシュタインですが、世界平和についてはちゃんと自分なりの考えを持っていたのですね。

 

一般相対船理論の発表

1916年、アインシュタイン最大の偉業とも評される「一般相対性理論」が発表されました。

この理論には、星の重力が光を曲げるという予言も含まれていましたが、当時の常識とは大きく異なる見解をすんなりと受け入れられる者はほとんどおらず、1922年にオーストラリアで観測された皆既日食で重力レンズ効果の存在が実証されるまでは「一般性相対理論」が学会でも認められることはありませんでした。

やはりアインシュタインは時代の先を行き過ぎていたのです。

ただ、「一般相対性理論」が認められるようになってからは、アインシュタインはマスコミに取り上げられるようになり、科学界のみならず世界的な有名人となりました。

 

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ノーベル物理学賞受賞

1922年11月9日、大正天に謁見するため日本に向かう客船「北野丸」での航海中にノーベル物理学賞受賞の知らせを受けました。

受賞理由は、アインシュタイン最大の偉業である「相対性理論の提唱」ではなく「光電効果の発見」によるものでした。

相対性理論については、当時、有用性が理解できる者が少なかったということと「ユダヤ的」と批判され世間からも受け入れられにくかったという、科学的かつ政治的理由からノーベル賞受賞の対象とはならなかったのです。

ここで勘違いしないでいただきたいのですが、「光電効果の発見」も蛍光灯のは発明に繋がるなど、十分に偉大な研究成果であるということを知っておいて下さいね(*’▽’)


来日中のアインシュタインと妻のエルザ

 

アメリカへの移住

1933年に、ヒトラー率いるナチスが政権を獲得して以降、日々強くなっていくユダヤ人への迫害にうんざりしたアインシュタインはドイツからアメリカに亡命し、プリンストン高等学術研究所の教授としての生活をはじめます。

この亡命の際に、ドイツのベルリンに拠点があった「プロイセン科学アカデミー」の会員を辞任しました。

その後、ドイツはアインシュタインを国家反逆者としたのですが、彼の功績や影響を考えると当時のドイツの行いは失敗であったと言わざるを得ません。

国家として誇るべき優秀な人材を自ら手放したようなものですからね。

 

アメリカに移住した後も、アインシュタインは精力的に研究を行い、1935年には「アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス」(量子力学と相対性理論の矛盾)、1936年には「アインシュタイン=ローゼン橋」(ワームホール)の概念を発表するなど目覚ましい活躍をしていました。

ただ、1936年には最愛の妻エルザが死去してしまいます。

この後、平和主義を掲げていたはずのアインシュタインですが、研究内容が軍事に傾倒するようになります。

ルーズベルト大統領に、自らの研究成果が軍事利用できる可能性について言及した手紙を送ったり(原子爆弾の開発・実用に繋がる)、魚雷の起爆装置の改善に尽力したりと明らかに戦争賛成派よりの活動を行うようになります。

第二次世界大戦が勃発すると、「もはや、兵役拒否は許されない」と戦争を正当化するような発言を行い、かつて平和主義者同士として意気投合したロマン・ロランから痛烈に批判されました。

ナチス政権が誕生し、ユダヤ人として迫害を受けてきたアインシュタインの平和思想は、武器を取らず徴兵にも応じないという「絶対的平和主義」から、やむを得ない場合は武器を取るという「”確信ある”平和主義」へと変化してしまったのです。

アインシュタインのルーツや時代背景を考えると、彼の平和に対する思想の変化も致し方ない事だったのかもしれません。

しかし、1945年に広島へ原子爆弾が投下されると、アメリカへの軍事協力を酷く後悔し、死ぬまで消えることのない罪悪感を抱えることとなります。

アインシュタインは、第二次世界大戦終結後も「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説したり、湯川秀樹がアメリカに滞在した際には彼のもとを訪れ「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった。こんな私を許してください」と号泣しながら頭を下げるなど、自分の研究成果を軍事に使用したことを激しく悔やんでいたことが伺えます。

アインシュタイン死去の前年1954年には、「もし広島と長崎の事(原爆投下)を予見していたなら、1905年に発見した公式(E = mc2)は破棄していた」とも語っています。


アインシュタインが提出したアメリカ帰化申請書

 

平和活動への尽力

第二次世界大戦終結後の1946年に、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受け、国連総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送りました。

1948年には、イスラエルで多発していた残虐なテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズに掲載させ、自分の影響力を最大限に活かした平和活動に努めました。

1952年には、拒否されはしたものの、イスラエル政府がアインシュタインに大統領就任要請を行っています。

いかに、アインシュタインの平和活動が高く評価されていたかが分かります。

1955年4月11日に、哲学者バートランド・ラッセルと共に核兵器の廃絶と戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴えるため「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名し、全世界に大きな影響を与えました。

アインシュタインの平和活動は世界規模のものだけではなく、彼の身近なところでも行われており、ジョン・ハーシーの著書であり原爆投下直後の広島の取材をまとめた「ヒロシマ」を自費で大量購入し知人に配って回ったりもしていました。

間接的にですが、原爆投下に関わったという罪悪感もあったのでしょうが、私財を投じてまで平和のために活動する姿はまさに偉人にふさわしい振る舞いであったと言えるでしょう。

 

死去

1955年4月13日、アインシュタインは腹部動脈瘤の肥大による心臓付近の痛みを訴え倒れてしまいます。

胸の痛みで倒れてから2日後にプリンストン病院に入院しますが、研究がしばらくできなくなるという理由で手術を拒否してしまいます。

病院でも研究を続けるために、秘書に必要な用具を持ってくるよう申し付けてもいました。

そして1955年4月18日午前1時過ぎ、「20世紀最高の物理学者」や「現代物理学の父」とも評された物理学の大天才・アインシュタインは76年の生涯の幕を閉じます。

死の間際に、アインシュタインはドイツ語で何かつぶやいていたそうですが、それを聞いた看護士がドイツ語を理解できなかったため、彼の最後の言葉の内容については不明です。

 

アインシュタインの遺体は、火葬され遺灰はデラウェア川に流されました。

アインシュタインの身体は地球の一部へと還されたのです。

ただし、彼の「脳」だけは別でした。

アインシュタインの死後、彼の遺体の解剖を行った解剖学者のトマス・ハーヴェイが、なんと遺族の了承を得ずに「脳」だけを自宅に持って帰ったのです。

そりゃあ、稀代の大天才の脳ですから興味あるのはわかりますが勝手に持って帰ったらダメでしょう(◎_◎;)。

しかも、アインシュタインを脳を詳しく調べるためにスライス標本にして脳研究者たちに一方的に送り付けたりもしました。

その結果、アインシュタインの脳は、下頭頂小葉という視覚や空間の認識・思考をつかさどる部分が一般的なものと比べて15%ほど大きかったことが分かりました。

それまでの物理学の常識を覆しまくったアインシュタインには世界がどのように見えていたのでしょうね(‘_’)?

ただ、死者の脳を遺族の了承も得ずに持ち去り、挙句の果てには切り刻んでバラバラにしてしまうなど、倫理的にも法律的にもハーヴェイの行いは完璧にOUTです。

当然ですが、ハーヴェイは務めていた病院を解雇されてしまいます。(解雇だけで済んでよかったね(;’∀’))

アインシュタインの脳は、現在アメリカのフィラデルフィアにあるムター博物館で展示されています。

脳が展示されることになった経緯はどうあれ、大天才アインシュタインのものということで医学的に非常に重要な標本であることには変わりありません。

興味のある方は、ムター博物館に足を運ぶことをオススメします。


ムター博物館に展示されている「アインシュタインの脳」

 

 

人物像

ここまで、アインシュタインの生涯について紹介してきましたが、彼の人物像についてさらに詳しく見ていきましょう。

 

まず彼の性格ですが、周囲の人々いわくおとなしく生真面目であったそうです。

ただ、家庭内問題なども鑑みると、典型的な内弁慶タイプの人物だったのでしょう。

 

また、あまり笑顔を見せないことでも有名だったアインシュタインですが、1951年3月14日、彼の72歳の誕生日にINS通信社のカメラマンがスマイルを要求すると一瞬笑ってしまいそうなのをごまかして舌をべーっと出したところを撮影されてしまい、あの有名な顔写真が生まれたのです。

この時のアインシュタインの顔写真は1951年度ニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞し、アインシュタイン自身もこの写真をいたく気に入り、9枚も焼き増しを頼んだそうです。

ただ、この写真のせいで、アインシュタインは明るくひょうきんな人物だと勘違いする人が続出することにもなるのですが…(◎_◎;)

 

幼いころからの趣味であったバイオリンは生涯愛しており、公の場でも何度も演奏を披露していました。

一般的な風評では「バイオリンの名手」として名を馳せていたようですが、実のところは名手というほどでもなかったとか。

専門家から言わせると「Relatively good(比較的上手)」という微妙な評価でした。

 

最後に、アインシュタインと当ブログの筆者である私との共通点をご紹介します。

大半の方は興味ないでしょうが構わず続けます。

アインシュタインと私の共通点…。

それは…。

「大の靴下嫌い」です!

靴下嫌いだったアインシュタインは素足で口を履いていたそうですが、絶対臭いですよ、これ。

だって私も裸足で靴を履き続けて、超絶臭くなってしまった経験があるからわかります。

まあでも、訪日中の写真を見ると靴下をちゃんと履いていたようです。

公の場ではきっちり足の臭い対策をしていたのですね。

さすがアインシュタイン。抜かりなしです。

随所に人間臭さと天才感を織り交ぜながら出してくるアインシュタインに対して、尊敬の念を抱かずにはいられません。

 

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名言

『アインシュタイン』の紹介の最後に、彼の残した名言の中でも私が特に感銘を受けたものをご紹介します。

 

一見して人生には何の意味も無い。しかし一つの意味も無いということはあり得ない

私はそれほど賢くありません。ただ、人より長く一つのことと付き合ってきただけなのです。

空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。

常識とは18歳までに身に着けた偏見のコレクションのことをいう。

一見して馬鹿げていないアイデアは、見込みがない。

大切なのは、自問自答し続けることである。

6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない。

優れた科学者を生み出すのは知性だと人は言う。彼らは間違っている。それは人格である。

人が恋に落ちるのは、万有引力のせいではない。

かわいい女の子と一時間一緒にいると一分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に一分座らされたら、どんな一時間より長いはずだ。これが相対性である。

 

まとめ

さてさて、今回は当ブログの【偉人紹介シリーズ】の第一回目として『アインシュタイン』について紹介して参りましたがいかがでしたか?

偉大な功績の数々に圧倒されて、ますます遠い存在だと感じた方もいれば、案外人間臭くて少し身近に感じるようになった方もいるかもしれません。

家庭内暴力とか泥沼離婚劇とか靴下をはかないとか、ここら辺にかんしては意外に思った方が多いのではないでしょうか?笑

まあしかし、彼の偉業が我々と宇宙の距離を少し近くしてくれたのは確実です。

アインシュタインは、間違いなく歴史上トップレベルの偉人でしょう。

 

【偉人紹介シリーズ】は今後も不定期ですが続けていく予定です。

次はどなたをテーマにしようかな(*’ω’*)?

 

ではでは、今回はこの辺りで。

次回の宇宙情報を乞うご期待!